飛沫節

はじめまして。略してNMということでひとつ。

【「あ・うん」読了】

あ・うん (文春文庫)


爆笑問題の太田氏が以前どこかで、「向田邦子松田優作が死んだときだけは、俺は絶望した」みたいなことを言っていたのを覚えていた。そこまで言うのなら僕も触れてみようじゃないかと思い、ブックでオフした105円。そして積ん読気分で放置してきまぐれに今日、こうクソ暑くては勉強にならんと逃避して一気に読みふけったわけだが、度肝を抜かれた。素晴らしい。

あ・うんは、1980年3月9日から3月30日までNHKで放送された向田邦子脚本のテレビドラマ。テレビドラマとして続編が制作され、1981年5月17日から6月14日まで放送された。向田邦子は10年ほどこのドラマを続ける意向であったが、1981年の不慮の事故死により中断した。

2000年には正月スペシャルドラマとしてTBSで放送された。1989年に映画化された。


あ・うん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%83%BB%E3%81%86%E3%82%93


ということで、いきなり映像作品がwikipediaでヒット。上記のような理由で僕はこの小説を読んだわけで、向田邦子さんがどのような人物なのか、全くと言っていいほど知らなかった。なるほどテレビドラマの脚本家さんだったのかと。というか、遺作ということになるのか?そう考えると、感じるものがあるというか、この作品を遺して、不慮の事故で逝ったというと何だか本当に泣けてくるんだが。


痛い。


痛い作品だった。笑いどころまで激痛である。この小説を読んだ人は、果たして誰に自分を一番投影するんだろうか。僕は普通小説を読むというとき、大概は登場人物の誰かに自然と(意識的あるいは無意識的に)感情移入してしまう。一人称視点の小説ならば普通、筆者側で被感情移入役を”主人公”に担わせることを想定して書かれているだろう。たとえそうでない作品、”主人公”が「誰」と明示されていない作品でも、僕は大概「中心人物」を自分で設定し(それも作者の意図した通りのケースもあるが)、その人物に”思い入れ”を持ち、その人物の経験を軸にその作品を味わう。


というのも、大抵はそうした”設定”が出来るからだ。結局、小説というのは作者という一人の人間がその人格をもって、あれこれ想像して形成されていくものであり、どうしてもその登場人物のいずれかに作者の心性が多く滲み出ているようなケースが多い(と経験則的に思う)。僕としては「ソレ」を読み取って、ソイツを軸に据えるのだ。


だが、今回の『あ・うん』は違った。この作品に”主人公”は居ないと思うし、それを僕の意思で設定することも出来なかった*1。これは単に、『僕』や『私』という一人称視点で作品が描かれていないことに拠るものではないし、また僕の読解力があまりにお粗末で、ということでもないのではないかと思う。


つまり、巧みなのだ。全ての人物に、登場頻度の差こそあれ、その誰もにほぼ均等な密度と深度で作者の人格的エッセンスが宿っている。偏りがない。男が女を描くときに女が感じる不全感、あるいはその逆といったものが、この作品からは感じられない。普遍的な男女の「同じ」が分かっているし、だから普遍的な男女の「違い」が描けているのだと、そう思った。


ここで”分かっている”なんて偉そうに言っているが、それはもちろん、僕自身が人間というものを”分かっている”とある程度「自負(勘違い)」してそう言っているのであるから、全くあてにならない感想であるのは言うまでもないが、それでもなお言いたい。『あうん』における向田邦子の、普遍的な「人間(ある時代の日本人)」に対する描写力は圧倒的だ。


と、ここまでで普遍的ということを強調したが、それは抽象的と言い換えても良い、つまり個々の人間のどろどろとした「本性」を徹底的に描いているわけではないということだ*2。逆手に受けて言えば、人物それぞれの心理はある意味で「浅く」描かれている。ただ、仮にそれが「浅い」としても、それは描写が稚拙ということではない。過不足がないというだけのことだ。


読者は、誰か特定人物の心理描写がことさら鋭く、深くなされていなくとも、結果として知ることになる。人間が依存しあう心、いかんともしがたいコンプレックス*3、情の深さとそのいびつさといった、いわゆる”小説的”なテーマの数々をだ。


つまりそれは、言語に最大限頼らない努力を実践していると言ってもよいだろう。筆者が持つ深い人間理解により過不足無く心理描写を付された登場人物らが織り成すドラマ、そこでの行動や言葉によってそれらの小説的テーマが、鋭く、深く浮き彫りになる、そういう”舞台装置”を一人で作り上げた偉大さがこの作品の本質的価値であり、「ドラマ」化される所以であろう。


ただ、そのクオリティは読んで確認してもらうしかないが、当然小説家的な”一人語り”の力、あるいは小説的テーマへの深い理解と表現力が伴わなければ、ここまで高水準で巧みな舞台装置を作り上げることは不可能だろう。それが伴っていることこそ、『脚本家』向田邦子の真骨頂(これしか読んだことないけど)なのだと思う*4



最後に、本作品の象徴的なシーンを一つメモしておく。



『あうん』で描かれるテーマの一つには当然「阿吽」、つまり仙吉と門倉という対照的な二人の男の気のおけない間柄、持ちつ持たれつで不可分の関係性を主軸とした人間模様であると思うが、そのテーマは作中半ばで、もう少し大きなくくりでもって次の文章に表されている。


(仙吉)「あれ、なんていったっけかなあ、ほら、将棋の駒、ぐしゃぐしゃに積んどいて、そっと引っぱるやつ」


ああ、こういうのねと女二人(仙吉の妻”たみ”と、門倉の妻”君子”)が、積み将棋の手つきになった。


「一枚、こう引っぱると、ザザザザと崩れるんだなあ」


女二人はそのままの手つきで次のことばを待った。


「おかしな形なりに均衡があって、それがみんなにとってしあわせな形ということも、あるんじゃないかなあ」


仙吉は両夫妻それぞれを中心として、近しく関わりあう人間全ての有機的関連性の必要性を説こうとする。ただ、コレは本作品のメインテーマというか、最も言わんとするところではない、のだと思う。これは、仙吉の優しさなのだと思う。この作品のイメージを掴む上で「分かりやすい」シーンの一つとしてメモしておいたが。



この分かりやすさに比べて、題字「あうん」の中黒が赤い理由のなんと解かりづらいことか。別離を予感させない最後のシーンにしてもそう、結局はじめから三人は連結し、また閉じている。おそらくこれからも。そう思うのは僕だけだろうか。


「あうん」の男女で、全ては完結、事足りるということではないか。猪鹿蝶で役は成っているのだ。そこから”弾かれた”者達、それはさと子や君子ら含めてだが(意図的でないにせよ)、その悲しさ、残酷さ、疎外感、それがまた人生にはよく在る。僕はそう思った。




それとも理由なんてないのかなあ、たまたまなんですかね、向田邦子さん。



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ウィキペディアを見返してみると、向田さんは「10年」このドラマを続ける気だったという。
小説には描ききれなかった未来が、あるいはあったのかもしれない。

*1:強いて言えば、僕が思うに『さと子』に作者の心性の多くが込められていたのではないかと思う。ただそれも、さと子はその”若さ”ゆえに感情の起伏が激しいため、作中の文面にそれが表出することが多いというだけで、それ以外断定出来るほどはっきりとした根拠はない。

*2:何が「普遍」か、また何が「本性」かは、時代等様々のファクターによってその都度左右されるかもしれないが、それは脇におくというか省く。

*3:この前の河合センセーの本による影響丸出しで言えば、作中ではまさに、幾度もの衝突(それまでの惰性的関係性の「死」)をもって数々の”コンプレックス”が解消されてゆくさまをみることが出来る。

*4:一応記しておくが、ここでは小説家と脚本家の優劣を言っているのではない。そもそも僕には小説家と脚本家の何が違うかなど分からないし、個人的には向田邦子さんは偉大な小説家だ、と言いたいです「あとがき」の山口さん。